
「没落遊園地」 制作者の立場から 飯塚 優子
創成川に沿って石狩街道をまっすぐに北上すると、茨戸に至る。
そこから左折して海に向うと、石狩である。
茨戸公園は、三日月湖の水辺を整えた、茫漠とした広場で、ボート遊びができて、
1〜2の飲食店が点在するものの、荒涼として、いつも風の強い場所だった印象がある。
その茨戸公園の入口にあたりに「茨戸ハワイランド」なるレジャー施設が誕生したのはいつだったのか。
そしてそれが営業をやめ、巨大なドーム屋根のある建物が朽ちるにまかせて廃墟となったのは、
いつからだったか。その廃墟の脇を通るたびに、あそこで野外劇が出来ないだろうか、
という想いが私の中でふくらんでいた。
1986年、駅裏8号倉庫が閉館し、札幌本多小劇場がオープンした。
この年、アレフは下北沢駅前劇場で初めての東京公演を行った。
翌1987年、銀座セゾン劇場のこけら落としにピーターブルックが招かれ、
真新しい舞台に赤い砂を一面に敷き埋めて「カルメンの悲劇」を上演した。
ピーターブルックの本拠地ブフ・ドュ・ノール(パリ)は、
火事で焼け落ちたオペラ劇場の廃墟をそのまま使ったものだと聞いていた。
劇団第七病棟の「ビニールの城」は、浅草の常盤座という使われなくなった映画館で上演された。
場所のちから、場所にたくわえられた時間のちからを演劇にとりこむ試みが
大きな話題を呼んだこの年・1987年に、力をつけたアレフが茨戸の廃墟に
取り組むことになったのは自然な流れだった。

記憶が定かでないのだが、おそらく石狩町役場に問い合わせて所有者の連絡先を聞いたのだと思う。
札幌中央区宮の森、荒井山近くのお宅を訪ねて利用許可を得た。
あらためて廃墟内を下見すると、宿泊施設の面影を残して
思いがけなくきれいな部屋が残っていたりもするのだが、床が抜けそうな危険な場所もある。
地下1階への階段を下りると、そこは一面の湖である。まるで「オペラ座の怪人」さながら。
このままではちょっと、こわい。というわけで、弥彦神社から神主さんに来ていただいてお祓いをした。
廃墟の四隅に盛り塩をして、役者、スタッフ一同で公演の安全を祈った。
(後に知ったが、ここはいわゆる心霊スポットのひとつだったそうで、この手向けによって、
目に見えない諸々を協力者とすることが出来たのかもしれない。)

前日のリハーサルから、機材の管理もあって、数名が泊り込んだ。
舞台となるプールサイドで、火を炊いて暖をとる。
何しろ、舞台上を車が走るし、かつては水がたたえられていたプール(いまではごみの川)に、
多量の花火を仕込んで火をたいても、映写中のスクリーンが炎上しても一向に問題ないくらい、
天井は高く、広いのである。
宣伝チラシに公演場所の記載はない。
集合場所は札幌駅北口。行き先不明のバスが観客を案内する。
いわゆる送迎バスは、どこでも行われているがこのミステリアスな味付けが話題を呼んだ。
今にして思えば、照明は電源車を入れたのだったろうか。
トイレは、仮設したのだったか。
細かいことは思い出せない、のではなく、何もかも萬年さんとアレフのみなさんが動いてくださって
私はただ、年来の夢がかなう楽しさに浮かれていたような気がする。

公演当日、石狩町の消防車が待機するなか、満席で幕をあけた。
困ったのは雨である。
たしか2日目の公演の直前から、篠つく雨が降り始めた。
たちまち豪雨となり、屋根の破れから雨が滴り、シェッタガーリアの演奏に危険がともなう。
それに、屋根に降る雨の音でセリフが聞こえないほどなのだ。
私のつれあいが、のんびり大鍋で販売していた「豚汁」も店じまいである。
もうひとつの問題は、近くの病院だった。
入院患者が居るから騒音をたてるな、と言うのである。
開演直後、私は拉致されて病院に連れて行かれた。
ここで、どんなに音が大きいか、聞いてみろ、というわけである。
結局、終演まで返してもらえず、私はまともに公演を見ていない。
(2007年5月30日)